「性」に対して窮屈なこの国

真面目な”性”の話
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有名人の不倫騒動は後を絶たず、今度はオリンピック日本代表がやり玉に挙がっているようですね。

立川志らくさんが、「よその家のこと」と言ってましたが、まさしくその通り。例によって謝罪してましたが、謝る対象は「家族」であり、この騒動によってダメージを被る「スポンサー」であって、世間ではありません。

しかし、今の日本では「世間様」に向けて謝るんですよね。「世間様」って、何様なんでしょう?

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この国では、戦前までは「性」に対して割とおおらかな感覚を持って人々が生きていた、ということを以前記事に書いたことがあります。農村では男女に別れて「若者グループ」が構成され、その中で「性のイロハ」を教えられ、夜這いやお祭りの後の今風に言えば「乱交パーティー」などで実践練習を積む、という場がありました。町民の間でも、住み込みの奉公先で同じような習慣があったりして、生活の中に性のことがある、という感覚を庶民は持っていた。

今のように、性に対して「潔癖であるべき」みたいな感覚は、それこそアメリカナイズされた戦後のわずか70年ほどの価値観でしかないわけです。それ以前は、売買春だって合法でしたしね。

レスの問題、セックスの問題について色々な情報に触れるにつけ、現代の日本人は相当に「性に対して窮屈」な人生を送っているなぁ、、、と感じずにはいられません。気持ちいいセックスを探求すること一つも、自由には出来ないなんて、おかしいんじゃないのかなぁ?

せめて、「セックスするときぐらい、気持ちよくなっていいんだ」と、自分を縛っている「価値観の縄」を、解いてあげたいものです。

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