自分は「アダルトチルドレン」かも、と気付けることは「幸せ」なこと。

よりよく生きるために
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先日、コメントのやり取りの中で、読者の方が「私はアダルトチルドレンなのかも」とご自身で気付く、という出来事がありました。

「一人ぼっち気がする。愛されていない気がする。必要とされていない気がする、、、etc..(読者の方のコメントより)」

以前記事で書いたように、僕自身もそうなのですが、「アダルトチルドレン」の特徴として、「自己主張が苦手」だったり、「自己肯定感が必要以上に低い」だったり、「必要以上に我慢をしてしまう」だったり、「先に相手の感情や気持ちを考えてしまう」などの「思考の癖」「行動の癖」があったりします。

アダルトチルドレンとは、「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなおトラウマを持つ」という考え方、現象、または人のことを指す。(出典:Wikipedia)

こんな風に定義されているせいか、「アダルトチルドレン=特殊な家庭で育った可哀そうな子」というようなイメージがついているように僕は感じます。ですが、前にも書いたとおり、僕はアダルトチルドレンというのは決して「特殊な、不幸な家庭環境」だけで育つものではないと思っています。そして程度の差こそあれ「特殊な人」ではない、とも思っています。

例え、傍から見れば幸せそうな家族であっても、その子の置かれた立場、感じ方などによっては、普通の家庭においても”アダルトチルドレン”になることはあると思っています。いや、むしろそういった「問題がある」とまで言えない家庭環境の中で育まれた、軽度な”アダルトチルドレン”の方が、その事実に、自分の心の鬱屈に気付きにくいという点で見れば厄介なのかもしれません。

ただ、自分が”アダルトチルドレン”かもしれない、と気付いたときに、「だから私はかわいそうな子」だとか、「だから自分は変なんだ」などと感じる必要はないと思います。逆に、自分で自分の「思考の癖」の原因に気付くことができたのですから、それはラッキーなことではないでしょうか。

実際、僕は自分がアダルトチルドレンだ、ということに気付けたところからようやく、自分の考えている事、思っている事を口に出したり、そのとおりに行動できるようになりました。自分に我慢を強いることが無くなったことで、今は生きていることがとても幸せと思えるようになりました。

人によっては、「自分はアダルトチルドレンかもしれない」ということを受け入れることが「嫌だ!」と思う人もいるかもしれません。それはそれで仕方がない。でも、いつか受け入れることが出来るようになったなら、それはとても幸運なことだということを分かって欲しいな、と思います。

 

 

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