【レス、克服への道】「性のこと」に向き合ってみる。

「レス」の克服
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以前、記事にも記事に書いたが、妻からの拒否に苦しんでいた頃「行為」が出来ないことに対して「激しい怒り」を感じる自分はおかしいのではないか、そんな風に思い、自分自身を見つめてその原因を探した。

その過程で、自分にとって「性」とは、「性行為」とは何かと向き合って考えたことがある。その時の僕は「自分にとって大事な行為。生きている中で一番喜びを感じる事」だと思った。「頭」では思った。

だから、それほどまでに大事な行為を妻に拒まれて出来ないのだから、これほどまでに強い怒りを感じるのだ、とその時の僕は考えたのだった。そして、そんなに大事な行為をする機会を奪う妻は、許せない存在だと思っていた。

今思えば、「頭」で考えて自分を正当化しているだけだった。

今、同じ問いを自分にしたならばどうだろうか。僕自身にとって「性行為」とは何でしょうか、と。

「大事なこと」には変わりない。「喜びを感じること」であって「気持ちいいこと」だ。

でも、それ以上の意味はない。沢山ある「するのが楽しく、ワクワクして、うれしくなること」のうちの一つに過ぎない。

もう一つ言えば、「自分ですること」と「妻との行為」に、今はそれほど差を感じていない。差があるとすれば、相手がいてその相手が気持ちよくなっているかどうか気を配ることとか、こみ上げてくる妻への愛情を感じたり、妻からの愛情を感じることができる、と言う点か。

レスで苦しんでいる頃は、違った。「妻との行為」が絶対的に「素晴らしいこと」で、「自分でするのは、惨めで仕方なくしていること」と感じていた。

それは、「性のことは大事」と言いながら、「快楽を得る」ことを自分自身で「おろそか」にしていたからだと思う。細かく言えば「自分で気持ちよくなる」ことは「悪い事、恥ずかしい事」だと心の奥底では感じていたせいだと思う。

前にも少し記事に書いたかもしれないのだが、僕は「自分でする」ということをとても大事にしている。妻や子供に邪魔をされない時間を選び、30分から1時間くらい時間をかけて、映像や画像を見たり、音声を聞いたりして「興奮すること」と、自分で触って「感じる」ことを大事にしている。(真面目に文章にするととても恥ずかしい(汗))

不思議なことに、これを心がけるようになってから、「出す」ということはそれほど重要ではなくなってきた。それまでは「出さないとする意味がない」とまで思っていたのに。

結局僕は、「性のことを大事にしよう」と偉そうに言いながら、自分自身の「性のこと」は「恥ずかしい事・悪い事」だと粗末に扱っていただけだったのだ。

きちんと「性のこと」に向き合うようになってからは、まず必要になる回数が減った。以前は場合によっては毎日、隙あらばそのことばかり考えていたのに。他の趣味のことを優先するようになった。

そして何より、さっき書いたように「妻との行為」が「崇高な特別なこと」ではなくなった。

いや、自分が「妻との行為」につけていた「余計な意味」が無くなった、と言うべきか。

色々つけていた「余計な意味」。「愛情を確認する行為」だとか、「逃してはならないこと」だとか。自分がつけていた「余計な意味」が、不要な怒りや悲しみを生み出していたのだ。

不必要な意味付けが無くなることで、行為を期待したタイミングで出来なくても、「残念」と感じるくらいまでになった。

それからは、日常の些細なことでも「ちょっとした興奮」を得て、「ささやかな満足感」を得られるようになった。前に記事に書いた「寝る時に手をつなぐ」こともそうだし、妻の肩や背中をマッサージすることや、湿布なんかを貼るために妻の肌に触れることなんかにも。

前は、「こんなことをしても、行為が出来ないんだったら意味がない!」とマイナスの感情になっていた。今は「ほのぼのとした幸せ」を感じる。

あなたは自身の「性のこと」を、おろそかにはしていないだろうか。大事にしているだろうか。一度、考えてみる価値はあると思う。

 

 

 

 

 

 

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