「した側」「する側」の論理。

夫婦のお話
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このところ、「不倫に対して肯定的」な方のブログを斜めに読んでます。

このブログでも、何度も何度も書いていますが、僕自身は「不倫」「婚外の関係」というものについて、「肯定」でも「否定」でもありません。

それは、その人の事情によるところで、僕が批判することではない。

そして、人間が「動物の一種」である以上、何年連れ添っていようが、子供が何人いようが、パートナー以外の異性に興味を持ってしまうのは動物行動学的には普通のことだし、そこを止めることは恐らく本人の「倫理観」でしかない、と思っているので。

ただ、、、「不倫を肯定する人達」に共通している部分があるなぁ、、、と思っているのが、彼ら彼女らのほとんどが「自分がされた場合、どうなのか」という観点がほとんどないんだなぁ、、、というところ。

みなさん、「魂が、、、」とか、「自分の魂の分身を宿した相手との運命の、、、」とか、はっきり言って「よく分からない世界」に足を踏み込んでいる点も気になるんですが、それ以上に「自分がされた場合」については頭の片隅にもない感じが、多くの方に共通しているんですよね。

自分が相手にしていることは、自分が相手からされる可能性のあること。

これってあたり前のことじゃないかなと思うのですが、そのあたりを考えたり、触れたりしている方ってほとんどいない。(何人かはいますが。)

僕が興味を持っているのは、パートナーも婚外の相手を追い求めている場合に、それでもこの人たちは「魂の~」と言って、パートナーの行為も肯定してあげれるのかな?という素朴な疑問です。

そして意地の悪い僕は「どうせ、相手からされたら肯定できないんでしょ?」などと思っている。

先にも書いたように、僕自身は婚外での関係を否定も肯定もするつもりはありません。

ただ、「自分が悪者になりたくないがために、自分自身の行動を正当化して、相手を余計に傷つける」行為は、それは批難されても仕方がないことではないか。

「する側」「した側」の「不倫肯定論」を読めば読むほど、彼・彼女たちの多くが「自分が悪者になりたくなくて自らの行為を正当化・神聖化している」ように思えてなりません。

「魂の?」いやいや、ただ単に他の異性に惹かれてしまったというだけの話でしょ?

だったら、そう言えばいいのに。その上で「私は一人では満足できないの!」でいいんじゃないのかなぁ。。。

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