この話は、前からこのブログを読んで下さっている方は「またその話?」と思われることと思います。そうです、またその話です。
このブログでは、いや、僕にとっては「セックスレスの問題」とは「解消」ではなく、「克服」する問題だと考えています。
では、「セックスレスの克服」とはどういう状態を目指すのか。
それは、「セックスの有無に精神的に振り回されずに、日々を幸せに生きれる状態になる」こと。
パートナーとのセックスが有るか、無いかに心囚われて、限りある人生の「幸せに過ごせる時間」まで色あせたものにしてしまうのは、そういう状態で生き続けるのは本当に勿体ない。
人生の時間という資源は、これは絶対に取り返すことができないので。
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こういう話をすると、特に「拒否される側」の方は「セックスが無いと、幸せに生きられない!」と反発を覚える人も多いことだと思いますし、その気持ちは痛いほど分かります。なぜなら、僕自身がそうだったから。
「パートナーとのセックスを取り戻したい」という気持ちを無理やり抑え込んで、幸せに生きることは、とても難しい。ほとんどの人の場合、無理だと思います。
でも、「セックスを取り戻したい」と願いながらも、セックスの有無に一喜一憂せずに幸せに生きることは、可能です。僕にとっては、そんな風になることが克服だと思っています。
そして、その結果として、パートナーとのセックスが戻ってくる場合もある。
これまでにも、何度も書いたことではありますが、セックスレスの問題で苦しんだり、強い怒りや悲しみを感じているとき、実際に「セックスが出来ない」ことに対して強い怒りや悲しみを感じていることは少なく、実際にはあなたがセックスという行為につけた「意味」「目的」「願望」が叶えられないことに対して、怒りや悲しみを感じている事の方が多いです。
ある人は、親にもっと愛されたかった、という願望から、セックスに「愛されている事の確認」という意味をつけてしまい、「セックスが無ければ愛されていない」という解釈をして悲しみ、苦しんでいる。
ある人は、自分を押し殺して我慢して生きている代償という意味をセックスにつけ、「我慢の代償であるセックスをする権利を、踏みにじられた!」と怒る。
「セックスが無ければ女(男)として終わり」とか、「自分の価値が低いから」とか、誰に言われた訳でもないのに勝手に意味づけをして、苦しんでいる。そしてその苦しみに心身ともに囚われてしまい、身動きが出来なくなっている。実に勿体ない。
僕もかつて同じようにもがき苦しんだので、いや、今も周期的にそうやって苦しんでいるので、そんな風な思考回路になるのは理解できます。でも、そうやってセックスのことに縛られて生きていくには、人生の時間というのは残酷なくらい短い。
一人でも多くの方が、セックスレスの問題を克服して、幸せになって欲しい。
心からそう思います。
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