川崎市で起きた無差別殺傷事件を受けて、テレビでもネット上でも、様々な意見が発信されているようです。
一定数の「不良品」が存在しうるという発言、それに噛みついて「人はモノではない!」という反論。「伯父伯母の手紙が原因だ!」とか、「引きこもりは凶悪犯予備軍だ!」とか。
まぁ、どれも「確かに」と思う部分と、「そうか?」と疑問に感じる部分とがあって、どれが「正解」なんてことはないんだろうな、と思いながら眺めています。
自分自身がアダルトチャイルドなので、この犯人の屈曲したものの考え方、捉え方については、間違いなくその生まれ育ちに原因があっただろうと容易に想像がつきます。
両親の離婚によって、半ば「捨て子」のような形で伯父・伯母に養育され、「ただ、食わせて、住まわせてやってる」というような中途半端な扱いを受けておかしくなってしまった。
そういう意味では、この伯父・伯母、そして何より、彼を無責任に捨て去った両親の責任は、重い。それは間違いない。
メディアの報道とか見ていると、いつもこの手の凶悪犯罪が起きたときと同じように「この犯人が特殊だった」「この犯人の環境が特殊だった」と言いたげな感じを受けます。
僕は、これは特殊な事例ではない、と思います。
人間って、間違いやすいし、壊れやすい。結構簡単におかしくなる。決して特別な生き物でも、崇高で素晴らしい生き物、という訳ではありません。
そういう前提に立って、物事を考えないと、自分の身も、大事な人の安全も守れない。
このところ、老人の運転による悲惨な事故も後を絶ちません。
自分の身も上手く操ることが出来なくなった人間が車を運転していること。そんな車がそこいらじゅうを走っている、ということ。それが、今起きている事実。
歩道を歩いていたから、信号を守っていたから、ではもう自分の身を守れる環境ではないのだ、という現実。
普通に生きていても、おかしくなった人から、いつ襲われるか分からない。これも現実。
人間という生き物は、僕らが考えている以上に間違える。壊れる。おかしくなる。
それを踏まえて、生きていかないといけないんじゃないだろうか。そんな風に思います。
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