個人を優先するのか、集団を優先するのか

夫婦のお話
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統一地方選挙が始まりました。

僕の住む地域でも、県知事選と県議選があります。

僕が今働いている会社にも、所属している協会を通じて特定の候補への応援の要請があり、出陣式だの、演説会などに駆り出されることがちょくちょくあり、政治家の皆さんの話を聞く機会が増えました。

そうやって政治の話を身近に聞くようになったこと、そして子供が色んな事に疑問を感じて質問を良くしてくるような年頃になったこともあり、この国のあり方、人間のあり方(大き過ぎるかもしれないが)について考えさせられることも増えました。

夫婦のあり方についても、最近は「多様性」を認めようという方向の意見を良く目にするようになりました。LGBTの人への配慮が必要だ!とか、同性婚を認めるべき、とか。夫婦別姓をどうすべきか、とか。

今の世の中は、「国」とか「地域」とかの「集団」からの縛りを嫌い、「個人」としての生きやすさを優先しよう、という方向に向かいつつあるなぁ、、、と感じることがあります。男性らしさ、女性らしさを個々人に求めてきたこれまでの社会のあり方の中では、そこに当てはまらない人は生き辛さを感じて苦しんできたことでしょう。「〇〇らしさ」に縛られる苦しさを味わったことのある身としては、その点は何となく想像がつく部分です。

でも、、、。個人の「生きやすさ」を追及していくことが、本当により良い社会の実現につながっていくのだろうか。そこには少し疑問を感じる自分もいます。男が男で、女が女であることを要求されなくなり、個人の良いように言葉は悪いけれど「好き勝手に生きる」状態が、果たして「良い社会」を作っていけるのだろうか。不安を感じます。

「ありのままで生きる」ことと、集団のために生きること。この二つのことのバランスを取ることって、意外と難しいのかもしれません。

一年ほど前に、「LGBT」「生産性」について書いた政治家の話が問題になりました。僕は、政治家として施策の「生産性」を考えることは当たり前のことではないのかな、とあの論説を読んで思いましたが、多くの方々はろくに論説を読みもせずに「子供を産む=生産性」のように解釈してただただ批判していたように思います。「国」や「政治」が子供を産むことを要求することへの必要以上の「アレルギー」がこの国にはあるようですが、これだけ「少子高齢化」が問題になっているのに、そのことについてまともに議論もできないなんて、おかしな国だなぁと感じずにはいられません。

今日は、何ともまとまらない話になりました。まとまらないまま、今日はこの辺で。

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