自分の中の「嫌なところ」を否定しなくても大丈夫。

よりよく生きるために
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先日来、「脳」についての本を読んで色んなことに納得させられる毎日です。

人間の「脳」というのは、物凄く良くできていて、すごい器官だ。そんな風に信じ込んでいましたが、実際にはシステムが複雑になり過ぎて、余計な心配事をさせたり、身体に必要のないものを摂取させたり、「混乱」や「恐怖」を人間にもたらしている「残念な」側面も併せ持っている。そんなことを知りました。

そして、頭に浮かんだことを「それは良くない!」と否定することは、無意味なことなんだなぁと思います。

大事なのは、それを行動に移さないことなのかもしれません。

このブログ上では、偉そうなことばかり書いているのですが、現実の僕はそんな偉そうなことを言えるような出来た人間ではありません。先日もそうだったように「表現が短絡的」なので勘違いを招くことも多いですし、結構短気で気分屋さんです。偏見も持ってますし、陰口もたたきます。とてもではないが、「模範的」な人間ではありません。

以前は、「こんなことを思ったらいけないんだ!」とか、「こんなことで怒ってはだめだ!」とか、自分に課している時期がありました。「いい人じゃないといけない!いい人じゃないと!」と思って、頭に浮かぶ”悪いこと”を一生懸命、まるで”もぐらたたき”の様に一生懸命叩こう叩こうとしていました。

でもよくよく考えれば、今の人間に行きつくまでの進化の過程で、厳しい自然界でどんな奴が生き残るかと言えば、「用心深くて、臆病で、でもいざと言うときには我を忘れて向かっていき、逃げ足が速くてずる賢くて、人を押しのけてでも餌をとれて、メスに(オスに)どん欲にアピールできて、スケベで、、、、」と、そんな「今では喜ばれない」性質を持った奴だったはずなんです。そうやって生き残ってきたから、今の自分がいる。

そう考えると、自分のもつ「認めたくないけど、ちょっと嫌な部分」というものも、ある意味あっても「仕方のないこと」なのかもしれません。

今のこのネット社会にあっては、「いい見本」がすぐに手に届くところにあるし、ちょっと「悪い」とみなされれば、すぐにバッシングされることもある。ときには「え、本当?作り話じゃないの?」というようなエピソードが称賛され、「え、そのくらいで?」とか「本当は違うんじゃない?」というようなことでも大炎上してしまう。何となく、「素晴らしい模範的な人間でなければならない」というような雰囲気が漂っている。そんな気がしています。

それこそ、”あいだみつを”さんではないですが、「それくらい、しょうがないんじゃない?」と自分自身を許してみることも、必要かもしれませんね。

 

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