「性欲」という欲求を、なぜ神は人間に与えたのか。
そんな問いを、目にしました。
人というのはとかく自分達の存在を特別なものと考えがちです。でも、それは間違っている。
人間なんて、所詮は地球上に住む生命体の一種。動物の一種類にしかすぎません。
今の我々の姿も、「人間」という動物の進化の形の、一つの結果にすぎず、そしてその形もどんどん変化していく。
僕たちは「人類」という生き物の進化の過程の中で生きている。
「性欲」は、神が与えたものなどではありません。
「性欲」は、私たち生命体が子孫を残していくために進化の過程で獲得した生殖活動のための戦略のうちの一つ。
そういう意味では、誰にでも「ある」のが前提になりますし、それを否定してもその存在は無くなりません。それがなければ、「あなた」もこの世に生まれてきてはいない。
ただし、人間の場合には他の生き物たちと大きく違って脳が大きく進化し、「感情」や「理性」と言うものが存在するようになりました。つまり、子孫を残したいという「本能」だけに従って行動するわけではない、ということ。
そして、この大きな脳による「思考」は、「本能」による生殖活動にも影響を及ぼすようになりました。例えば、本当はもっと欲しいけど、経済的な理由から子供の数を抑えようと考えたり、家の継続のために子供を作ろうと考えたり。本来、本能のままに行動していた時にはなかった「複雑さ」が出てきた。この「複雑さ」は、その個体に与えられた環境などともリンクして、個体差、つまり「個人差」も生むことになりました。
この「性欲」の「個人差」が、レスの問題をより難しいものにしてしまっています。
ある者は「もう要らない」と言い、ある者は「なくてはならない」と言う。
ただし、動物行動学の視点に立てば、「性欲」というのは人間のその時の都合で簡単にスイッチを入れたり切ったりできるような単純な欲求ではありません。私たち生命体が、気の遠くなるような年月をかけて獲得してきた「種の保存」の根幹にかかわることだから。
できることと言えば、個人差、個体差を踏まえて、どのようにそれと「付き合って」いくのか、ということしかないのではないかと思います。
そしてもう一つ、レスの問題を複雑且つ難しいことにしてしまっている要因。
それは、我々人間が「交接」を生殖のためだけに行うのではなく、親愛を感じる異性との「コミュニケーション」と捉えるように進化してしまっている、ということ。
地球上にあまた存在する生き物の中で、「生殖」のためではない「交接」を行う種類は、ほとんどいません(解明されていないだけかもしれませんが)。現在のところ、科学的に解明されているのは、人間に近い親戚とされているチンパンジーの「ボノボ」だけです。彼らは、群れの中での緊張感を緩和するために、「生殖」を目的としない「交接」を行うことが明らかになっています。つまり「交接」をコミュニケーションとして行うことがある、ということ。
私たち人間も、その進化の過程の中で、生殖目的ではない「交接」を行うことで相手との親愛度を確認するようになったのではないかと考えられています。
この「コミュニケーション」の役割の部分が、レスの問題で僕たちを苦しめている要因になっているのですから、なんとも皮肉なことだと思います。
相手の肌に触れ、ぬくもりを感じることで安心感を得る。
そういった心理的な働きがあることを理解することで、求める側は「交接」まで至らなくても得るものがあるのだと感じることができますし、拒否する側は応じることのできるラインを譲歩できるかもしれない。
「性欲」など、要らない欲求だ。そんな風に、あなたがどんなに躍起になってその存在を否定していても、なにも変わるわけではない。
大事なのは、どうやって上手く付き合っていくのか、ということ。
雨に「降るな」と言っても無駄なように。風に「吹くな」と言ってもやまないように。
大事なのは、どうやって雨風から身を守るのか、ということではないでしょうか。
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